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こういう国は没落する ー 君が代教


先日、オリンピックに出場する日本選手団の壮行会があったそうですが、そこで森元首相が、君が代を歌えないような選手は代表ではないとか、暴言を吐いたそうです。

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森喜朗氏が「国歌歌えない選手は代表でない!」と壮行会で苦言
2016.7.3 23:49

 8月5日開幕のリオデジャネイロ五輪に出場する日本選手団の壮行会が3日、東京都内で開かれ、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が「国歌を歌えない選手は日本の代表ではない」と苦言を呈する場面があった。

 壮行会で国歌斉唱・国旗掲揚の後、あいさつに立った森会長は、壇上に上がった選手の服装を指して「赤いブレザーと白いズボン、これは何を意味しますか。まさに日の丸です」と強調。「先ほど国歌の斉唱があった。どうしてみんなそろって国歌を歌わないんだ」と指摘した。

 その上で「選手の皆さんにお願いしたいのは、口をもぐもぐしているだけでなくて、声を大きく上げて、表彰台に立ったら国歌を歌ってほしい」と要望した。


http://www.sankei.com/sports/news/160703/spo1607030028-n1.html
--

たかが歌が歌えるか歌えないかで、日本の代表ではないなどとどうして言われなければならないのか。
極端な話、歌なんぞ覚える暇があったら、練習をして来た人達だからオリンピックに出られるような選手になれたというのに。

こういう、実利よりも思想を優先させるような国は必ず没落する。
こんな思想が根底にある以上、日本は海外からの移住を積極的に受け入れられず、このまま人口が減り続けて、全てが縮小して行くことから逃れられません。

ちなみに、森元首相は、この時にラグビーの日本代表を引き合いに出したそうですけど、それこそラグビーなんて国籍に関係なく、3年その国でプレーしていれば代表選手になれる
旧英連邦諸国なんて、選手が行ったり来たりして代表になっているので、国歌がどうのなんて言うはずもない。アジアでは強豪の部類に入る香港やUAEの代表なんてほとんどが外国人、しかも母語は英語という選手ばかりで普段の生活も英語なのに、中国語やアラビア語の国歌がちゃんと歌えるとは思えない

そういう客観的な事実は知っているはずなのに、その知識はどっかに抜け落ちて、感情の赴くままにこういうことを言う。
こんな自民党が政権を握り続けている限り、日本の没落は止まらないでしょう。

なお、この壮行会で選手が君が代を歌わなかったのは、プログラムが最初から「国歌独唱」だったからです。

言いがかりもいいところってことでした。
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『国旗国歌の押しつけ』が日本を滅ぼす ー 産経のイチャモン


前エントリでは、自称保守の連中が卒業式を乗っ取って、日の丸・君が代を押しつけるイベントにしてしまっているという実例を紹介しました。
自称保守の連中は、自分達の思想を押し付けるだけではなく、そういう押し付けに反対する人を貶めるためにまで吐いています。


「君が代起立は教育滅ぼす」 市民団体メールを誤引用 産経、ネット見出しは修正
楊井人文 | 日本報道検証機構代表・弁護士
2016年3月26日 17時18分配信


【GoHooレポート3月26日】産経新聞は3月15日付朝刊(東京版)で「教職員の国歌斉唱『教育荒廃させる』 市民団体、大阪市立小中にメール」と見出しをつけ、「卒業式での教職員の国旗掲揚や国歌斉唱は『教育を荒廃させる』などとする内容のメールが2月、市民団体から大阪市立小中学校全424校に送られていた」と報じた。しかし、この市民団体が一斉送信したメールで「教育を荒廃させる」と批判したのは、国歌起立斉唱の「職務命令」やその発令を促す大阪市教育長の「通知」だった。メールでは国歌起立斉唱という行為そのものが「教育を荒廃させる」とは主張しておらず、「国旗掲揚」には全く言及していなかった。ニュースサイト記事の見出しが一部修正されたものの、同団体は「誤報」と抗議している。

記事が取り上げたのは、国歌斉唱時の不起立を理由に戒告処分を受けたの松田幹雄・大阪市立中教諭を支援する活動を展開している「Democracy for Teachers and Children」(D-TAC)が2月10日、市立学校に一斉送信したメール。D-TACのウェブサイトで全文公開されており、問題となった部分は次のように記されていた。

私たちは、1月5日付で大阪市教育委員会に「質問と要請」を提出し、昨年1月23日付で出されました「式場内のすべての教職員は起立して斉唱するよう校園長より職務命令を行うこと」と指示する教育長通知と同様の通知を出さないよう要請していました。この通知と「君が代」起立・斉唱職務命令が、教職員の間に保身を蔓延させ教育を荒廃させるのではないか、本来、児童・生徒に対して当然なされるべき「君が代」の歌詞の意味や扱いの歴史的変遷についての情報提供も行わないまま起立・斉唱を強要し、「君が代」を歌いたくない児童・生徒に対して「いじめ」・人権侵害の現実が生まれているのではないかと問題提起していたのです。

出典:D-TACウェブサイト

日本報道検証機構はD-TACに対し、メールでの「教育を荒廃させる」という指摘は、式場内で国歌を起立斉唱するという行為そのものも含まれているのか質問したところ、「教育長の『通知』と『職務命令』についてのみ、述べたものです」との回答があった。卒業式などでの国歌の起立斉唱については「大人・子どもを問わず、一人一人の多様な参加のあり方を尊重し保障すべきです」との見解を示した。
今回の記事は、産経の大阪版で「大阪市小中学校に市民団体がメール 教職員の国歌斉唱起立に反対」と見出しをつけて詳しく報道。本文は、D-TACが問題視したのが「職務命令」であることにも触れているが、見出しとリード(東京版と同じ)はメールの趣旨について誤解を与える記述になっていた。

産経新聞ニュースサイト(WEST版)2016年3月15日掲載(見出し修正前)
出典:http://www.sankei.com/west/news/160315/wst1603150013-n1.html

ニュースサイト版見出しは修正、追加の訂正要請には応じず

ニュースサイトの記事も大阪版と全く同じ内容。見出しは独自に「『君が代起立』は教育滅ぼす」と記されていたが、D-TACの指摘を受け「『君が代起立』は教育を荒廃させる」に訂正された(記事末尾に修正した旨を明記)。その後、D-TACは産経に対し、見出しを「『君が代起立』職務命令は教育を荒廃させる」に訂正し、メールで言及していない「国歌掲揚」の記述も削除するよう再度要請。しかし、産経からは「本文を読めば職務命令を指していることが分かるから替える必要はない」と回答があったという。
ただ、産経の東京版記事は、大阪版より短いバージョンで、見出しにも本文にもメールが「職務命令」を問題視したことに一言も触れていなかった。当機構も東京版記事を踏まえて産経に質問していたが、回答はなかった。
大阪市は公立校の教職員に国歌起立斉唱を義務づける条例を制定している。市教育長は1月29日、各校長に対し、この条例に基づいて国歌起立斉唱の職務命令を出すよう通知していた。 D-TACが今回一斉送信したメールは、市教委にこうした通知を出さないよう要請していた経緯や趣旨を説明する内容だった。最後に「みなさまには、私たちのような声があることを頭においた上で、今一度、学校教育のあり方についてお考えいただきますようお願い致します」と書かれていたが、その他に国歌起立斉唱をやめるよう呼びかける趣旨の記載もなかった。

最高裁、「職務命令」自体は合憲判断

公立校の教職員に対する国歌起立斉唱の職務命令をめぐっては、思想・信条の自由を保障した憲法19条に反するとして、これまで何度も裁判で争われている。最高裁は、思想・信条の自由を間接的に制約する面は否定できないとしつつも、職務命令自体は合憲と判断(2011年5月30日判決)。ただ、国歌斉唱時に起立しなかった教員を停職処分としたのは重すぎて違法だとして取り消した事例もしたこともある(2012年1月16日判決)。2004年には、天皇陛下が園遊会で「強制になるということではないことが望ましい」と発言され、波紋を呼んだこともあった(朝日新聞2004年10月28日付記事)。

(*) 本文中「市立学校の全教職員に一斉送信したメール」と記していましたが、メールの名宛人は「大阪市立学校教職員の皆さんへ」と記されているものの、送信先は個々の教職員ではなく市立学校のメールアドレスであったため、「市立学校に一斉送信したメール」に修正しました。(2016/3/27 14:20加筆修正)


http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20160326-00055870/
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通達や職務命令というような形での押しつけを問題視していたメールが送られていたのに対して、その中身であるところの日の丸や君が代そのものが「教育滅ぼす」と言っているかのように装い、それを叩いて見せるという自作自演。

きちんとした分析ができずに、『敵』は自分達の思惑通りの行動をとっているに違いないという思い込みに脳が支配される、典型的なネトウヨ脳に陥っています。

こういう記事を読めば、「『君が代起立』は教育滅ぼす」という産経の捏造記事は、実は当たっていると、産経が自ら証明したと言えましょう。

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これぞ国旗国歌の押しつけ ー 卒業式を乗っ取る自称保守


この季節になると、保守を自称する面々が、国民に国旗国歌を押し付けて嬉々とするという醜悪な光景がそこかしこで見受けられます。

教育現場に特定の思想を持ち込み、教職員や生徒にそれを押し付けるという、先進国にあるまじきことが行われているこの日本ですが、今度は生徒の座り方にまで文句をつける始末です。

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卒業式で国旗に背を向け、国歌斉唱…「国旗軽視している」との批判受け来年度見直し検討 大阪の中学校
産経新聞 3月20日(日)9時35分配信

 大阪市立菫(すみれ)中学校(同市城東区)が11日に開いた卒業式で、卒業生が会場正面の舞台に掲げた国旗に背中を向けたまま式を行っていたことが19日、分かった。卒業生は国歌斉唱時も国旗のほうを向かず、2時間の式の大半で国旗に背を向けていた。卒業生と在校生が向かい合って座る「対面式」を採用したためで、外部からの「国旗を軽視していないか」との指摘を受け、学校側は来年度からの見直しを検討する。

 ■2時間の式のほとんど背を向ける

 卒業式は出席者が同じ方向に座る「一面式」が多いとされるが、菫中は約10年前から保護者が写真を撮りやすいなどの理由で、対面式を採用。卒業生が会場正面の舞台側に背を向けて座り、在校生と保護者が会場入り口側で卒業生と向かい合うように着席し、フロア中央に設置された演台で、卒業証書の手渡しや関係者のあいさつなどを行っていた。

 ただ、卒業生は、式にかかった約2時間の大半が国旗に背を向けたままとなり、その上、国歌斉唱時は国旗のほうを向かなかった。このため卒業式終了後に「国旗を軽視していないか」などの電話が数本寄せられたという。

 ■来年度からは国旗のほう向く

 取材に対し、菫中の山西雅人校長は「(国旗を)愚弄する意図はなく、国旗や国歌の意義について十分な教育をしている」と説明。一方で「来年度からは国歌斉唱時に国旗のほうを向いたり、対面式をやめたりすることなども検討したい」と話した。

 今回の事例について、文科省教育課程課は「あまり聞いたことがない例だ」と指摘。徹底した反復学習で基礎学力の向上を図る「陰山メソッド」や「百ます計算」の実践で知られる立命館大学教育開発推進機構の陰山英男教授は「国旗に背を向けて国歌斉唱をすることには違和感を覚える。厳しい指摘が出るのも自然なことだ。対面式で挙行するにしても、国旗に背を向ける時間を一時的にするなどの配慮を学校側はできなかったのか」と話している。

 ■各校や教委の判断任せ

 文部科学省の学習指導要領は「入学式と卒業式においては、国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めているが、出席者の配席についての言及はなく、「各校や各教育委員会が判断している」(同省教育課程課)という。

 同課によると、対面式の実施状況についての全国的な統計はない。対面式といっても、会場の両サイドに卒業生と在校生が座る方法を採用し、正面の舞台上の国旗に生徒が背中を向ける状態にならないよう配慮している学校もある。

 大阪府豊中市では平成27年度、市立中学全18校のうち、16校が卒業式で対面式を採用した。中央に三脚を使って国旗を掲揚し、国旗が生徒の後ろにならないよう工夫している。卒業式のスタイルは各校の判断に任されている。対面式が多い理由を、豊中市教委の担当者は「車いすのため舞台に上がることができない生徒に配慮した」などとした。

 ■東京都は「一面式」

 一方で教職員の国歌斉唱時の不起立や、出席者が確認できない場所に国旗を掲げるなどの“問題行為”が多発していた東京都では平成15年、都教委が全ての公立校に対し、入学式と卒業式では、児童生徒が式典会場の正面を向いて着席するよう通達を出した。この結果、対面式を採用する都立校は1校もなく、全ての学校で「一面式」による厳粛な式典が開かれるようになったという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160320-00000503-san-soci
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軽視も何も、押し付けちゃいけないのが国旗国歌法制定時の約束でしたよね。
にもかかわらず、教師は別だとか何だとか言って、教師の口パクまでチェックしておきながら、それに飽き足らず、今度は生徒もですか。
だって、日の丸に背を向けて座っているのは生徒ですものね。

そして産経は、東京都と対比させて、生徒に日の丸に顔を向けることを強制させている式を「厳粛」などと勝手な形容をしている。

結局、保守を自称する面々にとって、卒業式とは何なのかと言えば、旅立つ生徒の門出を祝い、在校生や教員との別れを惜しむ場なのではなく、ただ国旗国歌という思想を植え付ける場に過ぎないってことがよくわかります。

つまり、卒業式の乗っ取りが彼らの目的
自分が保護者だったら、こんな行為は絶対に許さないと思います。

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日の丸・君が代に関するgoldbugさんへのお返事(Afternoon Cafeさんより)(2)

一昨日のエントリ日の丸・君が代に関するgoldbugさんへのお返事(Afternoon Cafeさんより)』に対して、goldbugさんからコメントをいただきました。

返信が長くなりそうなので、新たなエントリを作ります。

------------------------------
白砂さん、まずこうした場を設けて頂いて有難うございます。秋原さんにずいぶん不快な思いをさせてしまったと、少々落ち込んでおりました。こちらにもいらしているようなので、改めてお詫びします。

さて本題ですが、私は教育は国家事業だと思っています。国民が資金を出し合って、国家が運営するプログラムです。ちょっと国家が教育から完全に手を引いてみたらと想像してみましょう。公立校は全部民間に売却します。義務教育も廃止です。親はどこでも好きな学校に子供を通わせることが出来、自宅で教えても構いませんし、全く教育を与えなくても自由です。文部科学省も学習指導要領も廃止です。学校はどんな教科書を使って何を教えるか全く自由です。先生の資格も廃止です。学校は自分の責任で誰を先生として雇うことも可能です。

そんな環境ではマドラサのような学校がろくに読み書きも教えず、他者への憎しみだけを植え付けるようなことも起こり得るでしょう。それを考えれば国家が教育に果たす役割がいかに大きいかが分かるでしょう。国家が国の責任として、国の将来を担う子供達が受けるべき教育の基準、枠組みを決めているのです。

ですから卒業式は学校行事であると共に、国家行事の側面も備えていると思います。卒業式の当事者はそこに出席する人だけではなく、国家の構成員全てであるわけです。ですから卒業式はどのような形式であるべきかについて、誰もが意見を持つ権利があると思います。

教育は国家百年の計という言葉があります。国の将来を決めるのは教育次第だと言っても過言ではないでしょう。それほど国家にとって重要な教育における節目節目において、国家がその存在を示して何が悪いのでしょうか。国家はそれにふさわしい役割を担っているのですから。国の将来を担う子供達を育てるために国が用意したシステムです。そのシステム自体に異議があるならいざ知らず、みんな満足して子供達の教育を任せているのではないのですか?それなら国は顔を出すなと言う必要などどこにもないと思います。むしろ国家としてあなたたちの門出を祝っていると子供達に知ってもらうべきでしょう。

卒業式に国旗国歌を持ち込むべきかどうかを決めるに当たって、構成員は国民全部ですね。国民の税金で行われる式です。主催者は国民全員です。国旗国歌を持ち込むかどうか、国民全員が自分のこととして決めるって事です。その時式に出席する人だけが当事者って事ではないでしょう。と言うか、義務教育なんだから、式に出席する人が当事者とするとしても、やっぱり国民全員ですけどね。

沖縄の基地の例えですが、それは国民の一部の人にだけ負担を負わせるって話で、国旗国歌の場合は別に特定の人だけに押しつけるわけではありませんね。全員が同じ経験をするわけです。

ここで対立する意見は「国旗国歌のある卒業式を挙行しよう」と、「卒業式に国旗国歌はいらない」という意見です。国旗国歌がなければ人権侵害だなどとは誰も言っていないでしょう。そしてそれが基本的人権を侵害しないことというハードルを越えたなら、あとは多数決に従うしかないでしょう。それ以外に決める方法は思い付きません。

ここまでで気がついたことですが、国旗国歌に反対している人達は、日の丸君が代が過去の不幸な歴史を象徴しているから反対だと言ってはいますが、実はそれだけではなくて、国旗国歌の持ち込みそのものに反対していることです。過去の不幸な歴史を言うなら、国旗国歌を日の丸君が代から別のものに変えれば問題ないはずですが、それでもまだ反対と言うのではないでしょうか?

つまり嫌なのは国旗国歌ではなく、国そのものですね。国防軍だと威勢のいい安倍政権を嫌うのは分からないでもないですが、白砂さんの支持政党が何かは分かりませんが、例えば共産党だったとして、共産党が政権を取り、9条を堅持し、弱者を最優先するあなたにとって理想の政府が出来たとしたら、それでもまだ国は顔を出すなと言いますか?

戦後民主主義の教育システムは戦前と違い、自由で平和で繁栄した国を作る、そのための人を育てるためのシステムでしょう。日の丸君が代を押しつけることでそれと反対の道を進ませようとしている人も中にはいるのかも知れませんが、そんなことが出来るとは思えませんね。ほとんどの人は今の制度は民主的な国造りをめざすもので、その制度を支える国が大事な節目に顔を出すのはふさわしいことだと思っているのではないでしょうか。
------------------------------

これに対しての私の答えは以下の通り。

==============================

さて本題ですが、私は教育は国家事業だと思っています。国民が資金を出し合って、国家が運営するプログラムです。

そうあってはならない、というのが戦前の日本の教育に対する反省であり、先進国と呼ばれる民主主義国家の常識でしょう。

そんな環境ではマドラサのような学校がろくに読み書きも教えず、他者への憎しみだけを植え付けるようなことも起こり得るでしょう。それを考えれば国家が教育に果たす役割がいかに大きいかが分かるでしょう。国家が国の責任として、国の将来を担う子供達が受けるべき教育の基準、枠組みを決めているのです。

「ろくに読み書きも教えず」なんて学校に、子供を通わせる親がどれだけいると言うのです。そういう極端な例があたかも一般的であるかのように装って否定するのは、詭弁ですね。

そして、あなたの言う「国家」とやらがその責任において行う教育で、「ろくに読み書きも教えず、他者への憎しみだけを植え付けるようなことも起こり得る」のであり、現実に非民主的と言われる政体の国では、異なる政治的方向性の持ち主を極端に貶めるような教育を施すことで、教育を為政者が自分達の権力を維持する道具に使っているのは否めないでしょう。
あなたの持っている「危惧」に対して、あなたが主張する方法は何の解決策にもなっていません

ですから卒業式は学校行事であると共に、国家行事の側面も備えていると思います。卒業式の当事者はそこに出席する人だけではなく、国家の構成員全てであるわけです。ですから卒業式はどのような形式であるべきかについて、誰もが意見を持つ権利があると思います。

だったら、民主主義国家の行事として、思想・良心の自由こそをそこで実践するべきでしょう。
そこで、日の丸・君が代の強制を行うということは、日本が思想・良心の自由を捨てるべきである。少数者の権利など認める必要は無いと、あなたは主張しているのと同じですよ。

教育は国家百年の計という言葉があります。国の将来を決めるのは教育次第だと言っても過言ではないでしょう。それほど国家にとって重要な教育における節目節目において、国家がその存在を示して何が悪いのでしょうか。

民主主義国家において、一つの政権が「百年」も続いたら大問題じゃありませんか。
民主主義国家において「国家百年の計」を語るなら、時の政権の考え方と異なる思想を持つ事も、またその主張をすることもできるのだということこそ、「教育」すべきなのであり、国家を重視すればするほど、「政治」とは距離を置くべきであるということですよ。
あなたの言う「国家」とは時の「政権」のことでしかない。
あなたは、将来日の丸・君が代に対して否定的な考え方を持つ政権が成立するかもしれないなんてことを、少しも考えてはいないでしょ。

そんな一つの思想を押し付けるようなことを教育の名の下に行うなんてことは、それこそ「国家百年の計」から見れば害悪でしかありませんよ。

国の将来を担う子供達を育てるために国が用意したシステムです。そのシステム自体に異議があるならいざ知らず、みんな満足して子供達の教育を任せているのではないのですか?それなら国は顔を出すなと言う必要などどこにもないと思います。むしろ国家としてあなたたちの門出を祝っていると子供達に知ってもらうべきでしょう。

教育の内容にまで時の政権が口を挟み、自分達に都合の良いような国民を養成しようとするシステムなんてものに、私は満足することなどありませんし、余計なお世話という人の方が多いと思いますね。
でなければ、何でこんなに私立の小中学校なんてものが存在しているんです?

卒業式に国旗国歌を持ち込むべきかどうかを決めるに当たって、構成員は国民全部ですね。国民の税金で行われる式です。主催者は国民全員です。

だったら、あなたの結婚式も親族のお葬式もそうですよ。国がその税金を使って認定を行っているのですから。

国旗国歌を持ち込むかどうか、国民全員が自分のこととして決めるって事です。

で、そんな決定を何時、国民全員に聞いたんです?

沖縄の基地の例えですが、それは国民の一部の人にだけ負担を負わせるって話で、国旗国歌の場合は別に特定の人だけに押しつけるわけではありませんね。全員が同じ経験をするわけです。

全員が同じ経験なんて妄想もたいがいに。
圧倒的多数の人々は、自分自身や子供が関係していなければ学校行事なんてものには無縁です。全員が同じ経験だなんて、実際に式に出て君が代を歌わせられる人々と、無関係な野次馬を同列に扱うなど乱暴もいいとこですよ。

本当に「全員が同じ経験をする」状態を作るなら、やはり、結婚式もお葬式も、儀式と名のつくものには全て「日の丸・君が代」を式次第に入れさせなければなりませんね。
でも、それはあなた自身が「場違い」と否定した。
つまり、あなたは「全員に同じ経験」なんてさせるつもりはさらさら無い。ただ、教育現場にだけ押し付けようとしているってことは、既に明らかなんですよ。

ここで対立する意見は「国旗国歌のある卒業式を挙行しよう」と、「卒業式に国旗国歌はいらない」という意見です。国旗国歌がなければ人権侵害だなどとは誰も言っていないでしょう。

だったら、あなたの言う「国旗国歌のある卒業式を挙行しよう」は対立する意見の資格を満たさないってことです。だって相手方は人権侵害を訴えているのですから。

そしてそれが基本的人権を侵害しないことというハードルを越えたなら、あとは多数決に従うしかないでしょう。それ以外に決める方法は思い付きません。

だから、思想・良心の自由を制約していると裁判所は言ってます。
加えて、多数決なんて取っていないではありませんか。
対立する意見とは「国旗国歌のある卒業式でなければ、自分の人権が侵害される」であり、それが多数であったなどという調査結果を私は見たことがありません。

過去の不幸な歴史を言うなら、国旗国歌を日の丸君が代から別のものに変えれば問題ないはずですが、それでもまだ反対と言うのではないでしょうか?

ですから、そんなものを押しつけさえしなければ、日の丸・君が代だって対して問題ではないんですよ。国旗だ国歌だなんて言ったって、オリンピックの表彰式くらいでしか出てこなければ、不幸な歴史があったって、ほとんどの人は気にしない。
そういう存在にしておけってことです。

つまり嫌なのは国旗国歌ではなく、国そのものですね。

違いますね。嫌なのは国旗国歌ではなく、それを利用して、他人の思想・良心の自由の侵害を平気で行おうとするあなた方、そしてそのあなた方が支持する自称「保守」の政権です。

ある意味、日の丸・君が代も気の毒だとは思ってますよ。あなた方に汚されて

あなたにとって理想の政府が出来たとしたら、それでもまだ国は顔を出すなと言いますか?

もちろんです。
「教育は国家百年の計」なんですから。


戦後民主主義の教育システムは戦前と違い、自由で平和で繁栄した国を作る、そのための人を育てるためのシステムでしょう。

ちょっと違うでしょうね。

旧教育基本法に書かれていた教育の目的は、

『平和な国家及び社会の形成者として真理と正義を愛し個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない』

「国を作る」ことは目的じゃありません。作るのは「国民」であり、しかも「個人の価値をたつとび」です。

一方、前の安倍内閣によって改訂された現教育基本法に書かれている教育の目的は、

『教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』

こちらですら、「国を作る」なんてことは目的とされていません。

日の丸君が代を押しつけることでそれと反対の道を進ませようとしている人も中にはいるのかも知れませんが、そんなことが出来るとは思えませんね。

出来るだろうし、現にあなたはそれを目指しているではありませんか。
「国家百年の計」と言いながら、その間、日の丸・君が代に対して、自分とは異なる価値観を持った政権が出来ることはこれっぽっちも考えていない。
即ち、そのような多様な考え方が共存するような民主的な国ではない日本にするために、「国の意志」で教育するんだとおっしゃっているではありませんか。

そういう本音が、あなたの書き込みのそこかしこから漏れ出て来ていますよ。

ほとんどの人は今の制度は民主的な国造りをめざすもので、その制度を支える国が大事な節目に顔を出すのはふさわしいことだと思っているのではないでしょうか。

あなたは、秋原さんのところで

『そしてどんな社会、国であっても儀式で国旗国歌に敬意を払うのは常識だと思います。起立し、斉唱するのがデフォルトってことです。国旗に対して起立もしなければ、国歌を斉唱もしないというのはいわば常識外れの状態です。』

なんてお書きになってましたけど、それに対して、一般的に先進国と呼ばれる民主的な国では学校行事に国旗国歌なんて持ち込まないのがデフォルトだと教えて差し上げましたよね。

にも関わらず、ご意見を変えないということは、この点からも、あなたは「民主的な国造りをめざす」必要は無いとお考えになっていると、判断されますね。

===============================

そんなに日の丸・君が代が好きなら、せいぜい自分主催の結婚式でもお葬式でも使って下さいな。
でも、それを他人に押し付けないで下さい、民主的な政体を持つ日本を維持しようと思うならってことです。
民主的な政体を維持のためには、思想・良心の自由を守るのが基礎の基礎であり、それに必要なのは「調べない」ということなのですから。

では。

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日の丸・君が代に関するgoldbugさんへのお返事(Afternoon Cafeさんより)


秋原葉月さんのAfternoon Cafeで、「これが日の丸君が代の本質」というエントリがアップされました。

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-482.html

そこでgoldbugさんという方と何回かやり取りをやらせていただいたのですが、秋原さんもこれ以上は望まれないようでしたが、その私宛の最後のコメントもまた、なかなか興味深い内容であったので、こちらで紹介の上、そのお返事を書かせていただきたいと思います。

ちなみに、goldbugさんにはいつものように「自分の主催する結婚式やお葬式の式次第に日の丸・君が代は入れるのか」と聞いたところ、「私的な行事だから入れない」とお答えになっています。

------------------------------
白砂青松0715さん

公と私の違いは詰まるところお金でしょうか。
結婚式や葬式でお金を出すのはその当事者です。どんな式にするかはその人達の自由であり、もしやりたいなら日の丸を掲げて君が代を歌っても構わないでしょう。
入学式や卒業式もある意味同じです。どんな式にするのかは当事者が決めることです。
そしてこの場合当事者は税金を払っている国民みんなです。

結婚式や葬式で誰かが日の丸を掲げたいと言い、別の誰かがそんなのは嫌だと言ったらどうしましょう。
話し合って決める。それでも決着が付かなかったら親戚一同で多数決にでもしましょうか。
入学式や卒業式ならどうでしょうか。意見が衝突したら、結局多数決にするしかないでしょう。

ここで重要なことは誰の人権も侵されていないことです。裁判所がそう言いました。
多数をもってしても奪い得ない権利がある。
それを逆に言うなら、人権が侵害されていないなら、多数に従うのが民主主義って事です。
誰の人権も侵害されていないのに、少数の意見が多数の意見を押しのけるとしたら、それこそ民主主義の否定です。

------------------------------

これに対しての私の答えは以下の通り。

==============================

>公と私の違いは詰まるところお金でしょうか。

あなたが「私」に区分するものにも、税金はいろんな形で使われていますよ。

>そしてこの場合当事者は税金を払っている国民みんなです。

では、税金が使われている行事では全て日の丸/君が代を持ち込まないと常識はずれってことになりますね、あなたのお考えなら。
でも、世の中、日の丸・君が代なんて無い行事、儀式ばかりですよ、実際には。
先日も「どんな社会、国であっても儀式で国旗国歌に敬意を払うのは常識」なんて言ってましたけど、観念だけで語らずに、良く周りを見てご覧なさい。

>結婚式や葬式で誰かが日の丸を掲げたいと言い、別の誰かがそんなのは嫌だと言ったらどうしましょう。
>話し合って決める。それでも決着が付かなかったら親戚一同で多数決にでもしましょうか。

ですから、「ご自分が主催する」とお聞きしたんですけどね。
その場合、お金を出すのはあなた。即ち、別の誰かに「そんなのは嫌だ」なんて言う権利は無い。それがあなたの「常識」なのではありませんか?
だったら、「当事者」たるあなたの意志で、結婚式にも、お葬式にも、「日の丸・君が代」を式次第に入れる、そうならなければ、あなたの言っていることに整合性が取れません。

というか、ホントにあなたは「話し合って決める」つもりですか?

自分の主催する儀式の内容で、誰かが「そんなのは嫌だ」と言わせてしまったら、普通はそれだけで主催者失格。
「話し合って決める」とか「多数決」以前に、誰かに「そんなのは嫌だ」と言われそうなことは行事の中に入れない。それができないような主催者は、ゲストのことよりもホストたる自分の欲求を優先する、あなた流に言えば「空気が読めていない」者とみなされる。
それが現実の社会ってものですよ。

で、実はあなたもそう思っているから「もちろん入れません」なんでしょ?

自分が責任を負わなければならないものには、とても誰かが嫌がるだろうものは怖くて入れられない。ところが、学校行事なら自分には直接責任がないものだから好き勝手なことが言える。違いますか?

>ここで重要なことは誰の人権も侵されていないことです。裁判所がそう言いました。

裁判所はそんなことは言ってませんよ。
あの職務命令は、個人の人権(思想・良心の自由)を間接的に制約するものだけど、教員という立場では受忍し得るものだったと言っているだけです。制約を受けることは最高裁も認めています。

>多数をもってしても奪い得ない権利がある。

これは「民主主義国には多数をもってしても奪い得ない人権がある」という命題をあなたが言っていると解させていただきます。

>それを逆に言うなら、人権が侵害されていないなら、多数に従うのが民主主義って事です。
>誰の人権も侵害されていないのに、少数の意見が多数の意見を押しのけるとしたら、それこそ民主主義の否定です。

論理のルールを全くご存知ないんでしょうね。
ある命題の真偽と、その「逆」の命題の真偽は一致しないというのは、論理の初歩の初歩なんですけどね。

「民主主義国には多数をもってしても奪い得ない人権がある」に真偽が一致する命題は、その対偶にあたる「多数をもってしても奪い得ない人権がないのは民主主義国ではない」だけです。

しかも「逆」にすらなっていない。

「民主主義国には多数をもってしても奪い得ない人権がある」の逆命題は、「多数をもってしても奪い得ない人権があるなら民主主義国である」です。

仮に「逆」の真偽が一致するとしても、あなたの言う「多数に従うのが民主主義」なんて概念が入って来るのは、そこで話をすりかえているってことです。

で、人権が侵害されていないなら、多数に従うって、それのどこが民主主義なんです?
民主主義とは構成員全員が権力者という体制を是とする思想を言うのであり、多数決なんていうのは、その意思決定の一手法に過ぎません。

そして、あなたの言う「少数の意見」とは自分のことを自分で決めたいという話。一方「多数の意見」とは他人のことを自分が決めたいという話。つまり、「構成員」の範囲がそもそも違うってことです。
自分のことを決めるのか、他人のことを決めるのかでは、意見の重みに差があって当然であり、単純な数で比較すべきものではありません。

例えてみれば、沖縄の基地問題のようなある地域に取って悪影響がある問題を、日本国民全体で見れば多数意見だからといって、地域の声を無視して沖縄に押し付けておけば良いと言っているのがあなた。

もう一つ例え話をすれば、日本と中国が領有権を争っている尖閣諸島がどちらに帰属するか、それを当事者の投票で決めましょう、結果はおそらく圧倒的な差で中国の領土が多数意見となるでしょう、無人島の帰属が移ったって誰の「人権」も侵害しないのですから、日本国民もそれに従いましょう。
こんなことを言っているのもあなたってことになります。

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そして、もし、この「日の丸・君が代が式典に持ち込まれるのは、自分の思想・良心の自由の侵害だ」という意見が「少数の意見」だと言うなら、比較すべき「多数の意見」とは、構成員の範囲を揃えれば「日の丸・君が代が式典に持ち込まれないのは、自分の思想・良心の自由の侵害だ」の筈です。

さて、この後者のような意見は本当に「多数の意見」なんでしょうか?
私は否だと思います。

もしそうなら、世の中で行われる数多くの式典の度に「日の丸が無かった、君が代が歌えなかった」という抗議の声があがり、それを「思想・良心の自由の侵害だ」という訴訟が起こされている筈ですから。

でも、私はそんな訴訟は聞いたことが無い。

ということは「式典に日の丸・君が代を無理に持ち込まない方が良い」が、実は『多数の意見』に従ったやり方だということです。

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以上です。

>goldbugさん

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